蒲江高校校歌誕生秘話

「文潮」復刊第四号(昭和36年1月15日発行)より転載

校 歌 誕 生

蒲江分校主任  五十川 正夫 

 初代分校主任見塩先生の作になる校歌があったが、文章は大変良いと思うのだけれども、曲の無かったせいか、余り歌われなかったので”校歌を作れ”の声はよく聞いていた。特に競技会、或いは同窓会などある度に、校歌を要望する声は益々大きくなってきた。
 たまたま本年四月末の修学旅行の途次、京都から奈良、奈良から大阪へと貸切バスは愉快な旅を続けていました。その貸切バスの中で演芸会が始まって、バスガイドと生徒の間で歌のやりとりが始まり、大変楽しい雰囲気に全てを忘れていたが、バスガイドから「では、皆様方の校歌をどうぞ」と所望され、私はハッと驚いた。いくら旅の恥はかき捨てとは云いながら、まさか校歌がありません、とは云えず、生徒に代っての答弁に私のノーは全スピードで回転を始めた。その時、心配無用とばかりに気転のきく生徒が音頭をとって歌い出しましたのでその場は事なくすんだのだけれど、私の耳元で「先生、校歌を作らにゃいけんのぅー。」と小さい声でささやく生徒の声がきこえた。
 修学旅行が終わってこの声は益々大きくなり、少しではあるが予算を組んであったのを幸い、愈々実行に移った訳です。
 作詞は、佐伯市上尾病院長の長門莫先生で、先生は佐伯合同短歌会会長であります。作曲は、この十月鶴城高校から鶴見ヶ丘高校に転勤された白根悦子先生です。
 全日制切替への喜びを校歌にのせて皆さんと歌う日を楽しみにしています。


蒲江高校校歌作詞感想
長門 莫 

 実はですね、さっき回診中に家内が五十川先生がわざわざ寄って下さった、と病室まで告げに来ました。「どういう御用件で………」と聞いたら、「此の間作詞した校歌の作曲が出来、それが二曲ありそれぞれテープに収めてあるから、あなたの方で良い方を決定して欲しい」と言うのです。私は大へん嬉しくて、それから一生懸命にしかも一瀉千里で回診をすませ、こゝで始めて二つの校歌を聴いたのであります。二つの校歌を耳にし、やがて五十三才の年が近づくのでありますが、自分の作った歌が曲にされて、再び自分の耳にかえってくるというような事はこの世に多くの人がおっても極めて僅かな人でしかなく、その僅かな人に私がなったという事は短歌を作り上げた時以上に嬉しいものであります。
 私には蒲江は未知の世界でありました。佐伯に開業した時以来、向うの景色なり、人物なり、風光なりについては憧れを持っていたのであります。そして去年五十川先生が、お願いしてあった看護婦補助員のことでおいでになりましたが、その時始めて校歌を作ってくれないかと頼まれたのであります。私はおこがましくも思いましたが、お引受けしました、とは言って、さて大へんな事になったと、心にかゝりながらも一年間手をつけかねていたのであります。所が丁度一年経った頃、先生がお出になって、今日はもう校歌はもういゝですと、お断りにお出になったのであろうと思ったのです。ところが、さにあらず、去年お願いした校歌をあくまで作れというのです。これはいかん。これはほんとうに作ってみようと、その時初めて決心したのです。
 そして、先生と約束した日曜日を待ちかねて、実は轟峠を越えました。あの日は雨でしたが、昼の雨が上って校庭には非常に浜木綿の花がきれいに咲いている。然も日曜日でしたから、当直の先生が二人しかおりませんでした。そこで、色々と歌いこむ材料はどうするといゝかなどのお話を承って、帰りは畑ノ浦の方を廻って帰ったのです。ところで、あの淋しい轟峠を越える時、すでに結句が出来たのであります。「あゝ光あり蒲江高校」のこの結句が、先ず先に生まれたのであります。「あゝ光あり蒲江高校」という言葉の中には、私の夢が託され、蒲江高校に対する私の愛情が発露となって現れました。こうして轟峠を下る時に、これは出来るぞというような気持ちが湧きました。そして畑ノ浦峠を廻って帰る時には、東の海上に黒島が浮かんでいる。まさに「東に浮かぶ黒島」は、この時に始めて出来たことなのです。
 帰って、いよいよ作詞にかゝって結句が出来ているので、これをどういう風にいうことを考えたのですが、「東に浮かぶ黒島」というのがショッパナに出来た関係上、東西南北にこれを揃えてやろうと考えました。もう一つ、実は去年、一昨年でしたか、丸市尾に日曜日に浜に遊びに行ったのです。そして、その白砂の静かな人里離れたあの湾そのものに、非常な愛着を感じておったので、この「西の方へ続く白砂浜木綿は」の句も又、私の体験から出来た言葉であります。黒潮のことにつきましては、学校で柴田、今永両先生お伺いした時に、五十川先生の意見として歌いこむ言葉の中に、黒潮があることを知りました。そして檳椰樹もその中に入っているのであります。この黒潮というものには、南の海から遠く流れ来て、この我等の郷土を洗って北上して行く。この潮には、我々の夢があるような気がして、そういう歌になったのであります。それからもう一つの結句の「あゝ誇りあり蒲江高校」というのは、あの北の方「北空にそびゆ轟」という、これは実はその前、一度夜蒲江が見たくて仕方がなく、誰にも云わずに飛び出して、運転手から、ここを走る時、これが「なみだ橋」です という事をきゝ、こゝは戦争中出征軍人が、この橋で涙を流して轟峠を越え、そしてこの「なみだ橋」で涙をのみながら、送る人も送られる人も意を決して、その高い轟峠を越えて戦争へ出て行った という話をきいていたのでありました。そこに聳ゆる轟峠…。これを越えて更に歴史を遡れば、恐らく昔、この海だけでなくて、この轟峠を越え、或いは出稼ぎに、或いは勉強しに、或いは色々な用事を持って、今でこそ自動車で越しますが、あの峠を越えていったであろうと……。つまり、あの最後の一句には、蒲江地方の歴史、つまり蒲江の人々の勤勉な血潮を感じて、峠の険しい山に、私の心を寄せた気持を歌ったのであります。こうして、二つの曲をききましたが、実は作曲の白根先生は、私の長男が鶴城へ在学中、私が鶴城運動会を見に行って、あの鶴城の運動会の最後に、女の先生が朝令台の上にお立ちになって、つまり男も及ばぬ程の指揮ぶりをされ、その姿を後から見て、何と立派な音楽の先生だなと、ひそかに感動していたのであります。が、それからいろんな事で、私事で先生とおつき合いしたこともありました。それで、私自身の気持ちもよくわかっておられるであろうと思い、私のさしこみでありますが、又、白根先生は、蒲江が未知の世界ではないのでありまして、マアどうしても白根先生にお願いしようと云う事で、お願いしたわけでありますが、緑ヶ丘におかわりになってお忙しい時に、この二つの曲をお作りになって、私の耳にきかせて下さいましたことは、先生の校歌に対する作曲の熱意というものが伺われます。
 どちらもいゝ曲でありますが、とにかくこのAという歌の方が始めのほうがゆっくりで、Bという歌の方は、始めの方が早すぎますので、私はAの方が歌い易いと思います。尚、こゝで申し上げておかなければならない事は、鶴谷中学の浜崎先生は、自分の郷里である有明小学校の校歌を作った事もあります。国語の大家でもあり、実はこの校歌を下書きする時に、浜崎先生の御援助を得ています。言葉の上でも調子の上でも十分御援助を受けておりまして。この点は、はっきりさせておきたいと思います。五・七調となったのは、私が根が下手ながら歌人
(うたびと)であったという事からでありまして、普通は七・五といくのが勇ましく、しかも作曲しやすいという事を後から聞いたのでありますがとにかく、海の彼方に浮かんでいる黒島に対して「東に浮かぶ黒島」が出来、轟峠を越える時に、私が蒲江に対して非常に愛着を持っていた関係上、「あゝ光あり蒲江高校」というこの言葉が生まれ、二つとも身を持って体験したことばであります。
 さて、この校歌が制定されて、「これからは長年うまく歌っていただければ……」という欲が出て参りまして、人間というものは、「隴を得て蜀を望む」という言葉通りであります。晴れてこゝに、私のつたない作詞が作曲されて、蒲江の将来を担う、或いは蒲江の中心人物、或いは日本の将来を担うであろう若人の口から歌われるであろうという事を思うと、何にもかえられぬ深い感動を覚ゆる次第であります。
 尚、今日わざわざ私に聴かせるために、五十川先生がこの重い重いテープレコーダーをおさげになって、私の家に来てくださった事は身に余る光栄であります。この一事を見ましても五十川先生が校歌を作り何とかして蒲江の生徒諸君の意気を高めようという事に非常に熱心な熱意があったという事を感じさせます、この五十川先生の熱意があったればこそ、こゝに校歌が生まれたのでありまして、これに対して心からお礼を申し、始めて校歌を聴いた感想の終わりと致します。


長門夫人の御感想 
 AとBを聴かせて頂きまして、始めBの方がいゝと思いましたが、繰り返し聴いていますと、やっぱりAの方が歌い易いのではないかと思いました。
 私も長門が蒲江に参ります度に二回か三回か行って居ります。こうして校歌が制定され長門の歌が長く歌われるのかと思いますといゝようのない感激で一杯です。どうか蒲江高校の将来発展いたしますよう心からお祈りいたします。


(注 以上の感想文は録音テープから転載いたしました。
 長門先生は医博で上尾病院長であり佐伯短歌会の会長でもあります。
作曲者の白根先生は永らく鶴城高校で教鞭をとられ昨年十一月緑ヶ丘に転任され、尚四月から開校される緑ヶ丘大学の教授に擬せられて居られる方です。
 転任早々誠に御多忙の所A、B二曲をお作り下されAは校歌として荘重に、Bは軽快にと考慮され、その選択をまかされましたので本分校の職員は申すまでもなく、小野校長、小代教頭先生等の御意見も承った結果、茲に作詞者の心の通る曲としてA曲の決定を見ることになりました。これで永い間校歌がなくて淋しい思いをしていた蒲江高校にも一つの大きな光が出来たことを喜んで居ります。 この上は在校生も卒業生も共に歌って和のくさびとなし、蒲江高校の発展されん事を祈って止みません。
分校主任 五十川 正夫 


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